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ふと思いついたので。

 

 

1回だけ

坊主さんの読経で

素晴らしいと思ったことがある。

 

その時は通路が開いた。

 

 

 

死の世界と

生の世界の

通路を安全を保ちながら開ける

通す。

 

 

これこそ

坊主の仕事というか

読経のチカラだと思う。

 

 

 

縄文時代には

通夜しか許されなかったという

なぞなぞ

 

そのあわいに触れるのは

特別な時だけ。

 

 

 

安全な通路をつくることができるための

修行だったのではないか?

 

と思うのだけど。。

 

 

 

死と生とのあわい。を自身で知るための

時に苦行だったのではないか?

 

と思うのだけど。。

 

 

 

いつのまにか

修行自体が自己証明となり

権力構造や派閥を生み出す

 

 

説教になり

説法になり

 

あれ??

みたいな??

 

 

 

安全を保ちながら

通路を開けるチカラがなくなった頃から

 

説教、説法という

ごまかしが生まれてきたんではないかな?

 

 

それはまるで

自分の呼吸だけで

トランスにはいれていた時代から

 

 

音楽を使い

薬草を使わないと

トランスに入れなくなった人類史

 

 

体現から口伝へ

口伝から文字伝承へ

 

 

身体感覚の衰えを

言語でカバーしてきた歴史

 

 

 

左脳実験は

そろそろ終わりっぽい。

 

 

科挙の時代が長すぎた。